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sihuku37

Author:sihuku37
横浜市生まれ&在住になるプロ野球ほかスポーツのファン。
地元『横浜ベイスターズ』を健気に地味に応援中~☆

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○”ファイターズ・オレンジ”の切り込み隊長

IMG_0029島田誠外野手

ボクにとっての記憶が深いのはオレンジ・カラーを基調としたユニホーム時代の島田誠選手。
巧打!快足!守備の安定さ!
当時、パ・リーグ自体が世間的注目は低かったのですが、(当時の)後楽園球場を所狭しと、サクサクサク~と軽快にプレーしていたのが島田誠選手でした。
※個人的ですが、ボクの本名にも”誠”が付くので、子どもながらでも不思議と注目?気になって!?いたのかも知れません。

島田誠選手は、大学を中退しノンプロの丹羽鉦電機に入社するもののすぐに野球部が廃部というプロ入りも危ぶまれていたそうですね。
その野球部選手たちらで立ち上げた”あけぼの通商”から1976年にテストを受け、同年、ドラフト外にて日本ハムファイターズへ入団するという、その後のスター的人気を集めた選手としては、なかなかの苦労スタートでした。

ルーキー年の’77年にはその小柄(168cmと言われる・・)ながらの俊敏性と俊足のある身体能力を活かし79試合(130試合制)に出場(盗塁10 打率.229)し、チーム首脳からも期待と注目をされるようになります。
翌’78年から外野手としてレギュラーの座を獲得。
規定打席には届かなかったものの115試合に出場(盗塁19 打率.294)しました。
’79年も順調に活躍をみせ、なかでも1979年6月5日の西武ライオンズ戦では”1イニング3盗塁(二盗、三盗、本盗)という現在でも珍しい記録を成功させる高速機動ぶりを発揮!(※盗塁技術ではチーム随一だったが、この記録の言わばアシスト?に当時44才の老練、野村克也捕手がマスクを被っていたという…。)

80年代に入るとパを代表するトップバッターとして、多くのプロ野球ファンへ広く認知されるようになります。
’81年シーズンにはリーグ第2位となる打率.319、盗塁42、出塁率.384と”切り込み隊長”としての役割を十二分に果たす活躍で、その年のリーグ優勝に大貢献!
その後も’87年シーズン頃までチームの主軸として、またリーグを代表する”1番・センター”として活躍しました。

選手晩年となる1991年、ダイエーホークスへ移籍し、その年に現役を引退します。
引退後も評論家、解説者として各メディアに登場し、特に移籍地でもあった福岡地方では人気を高めていたそうです。
90年代後半には、そのダイエーホークスの守備走塁コーチに就任。
2000年代初めにあった王ホークス日本一の躍進、チーム黄金時代をコーチとして支えていました。


その後のファイターズのセンターと言えば、、、この島田誠選手の活躍の跡を継ぐ形で、鈴木慶裕選手、井出竜也選手、さらにチームが北海道へ移っても新庄剛志選手、森本稀哲選手といった常にリーグを代表する”俊足・巧打・強肩”型の名選手を代々輩出されていますね。

個人的にはハムの左打ち、快足トップバッターといえばやっぱりこの島田誠選手なのだ~


またこの2010年より横浜ベイスターズに新監督として就任した尾花高夫監督の補佐役(ホークス時代からの”縁”もある二人)としてベイスターズのコーチ入閣を果たしている。
現役時代・ホークス時代の経験を新生ベイスターズにも注入、活かしてくれることを期待したい!



島田誠(しまだ まこと)
1954年9月3日生まれ 左投左打
福岡出身 直方学園高ー九州産業大(中退)ー丹羽鉦電機ーあけぼの通商ー日本ハムファイターズ(1976年入団テスト受けドラフト外にて入団)
通算成績:
1576試合、5387打数、1504安打、244二塁打、49三塁打、76本塁打、439打点、352盗塁、152犠打、624四死球、531三振、打率.279
主なタイトル:
ベストナイン2回 (外野手1981年、1983年)、ゴールデングラブ賞6回 (外野手1981年~1985年、1987年)、オールスターゲーム出場6回 (1979年~1983年、1985年)
1イニング3盗塁(1979年6月)



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○球界の2塁打王!!そして、誰もが認める平成の”Mr.ドラゴンズ”

IMG_0041立浪和義(中日)

昨今の野球界、立浪選手ほど全国の老若男女のプロ野球ファンに記録と記憶にも残り、平成時代の”ミスター・ドラゴンズ”としても相応しい活躍をされた選手はいなかったでしょう!

入団当時の身長は173cm、体重は68kgと、とてもプロ野球選手としての強靭そして屈強なカラダ・肉体を誇るには物足りない印象でした。
そんな立浪選手もドラゴンズ一筋で22年を実働されるですから~
本当にすごい!素晴らしい!!選手だったんだなと痛感する次第です―。


清原・桑田の”KKコンビ”で席巻した”甲子園”に、そのコンビに続けと言わんばかりに現れたのが、KKの2年後輩となるこの立浪主将率いる同じくPL学園でした。
この時は他に、野村弘樹(横浜大洋入団)、橋本清(巨人入団)、片岡篤史(日本ハム入団)といった錚々たるメンバーを擁し春・夏連覇を達成―。

甲子園球児から鳴り物入りで’87年ドラフト1位に選出!入団したのが当時、チーム改革に乗り出していた星野仙一監督率いる中日ドラゴンズでした。
入団当初の遊撃(ショート)ポジションには宇野勝というリーグ本塁打王のタイトル常連、さらにチームの打線の要的選手が居たにも関わらず、その宇野をセカンドへとコンバートさせてしまいます。
キャンプ時、星野監督と島野、木俣の両コーチらに立浪選手の守備力、走塁力の非凡さ感じるルーキーながらも高い野球センスを見込まれ、’88年シーズンの開幕に”2番 ショート”としてスタメンに大抜擢されプロ生活をスタート。
(当時)高卒者の開幕スタメンでは22年(セ・リーグだと29年)ぶりの快挙となる記録の更新という事でした。

この初スタメン(開幕)試合で早くも立浪選手の代名詞となる”二塁打”をプロ入り初安打として記録。
2009年の現役引退までに打ち続けた二塁打のその数”487本”は現在(2009年秋まで)の日本野球最多記録!(王、長嶋でも野村でも張本でもなく、、、イチローでもなく!!!)
また、この二塁打記録での”シーズン30本以上7回”を記録させているのは、この立浪選手だけ!という・・・まさに球界の”二塁打の申し子!?”。

そのルーキー・イヤーでは”試合110、打率.223、盗塁22、犠打21”を記録し見事”新人王”を獲得。さらに守備力を認められ、”ゴールデングラブ賞”も受賞。
1年目からのこの攻走守にセンス溢れる活躍が、ナゴヤの地に新しい旋風を巻き起こすかの様でとても新鮮な印象がありました。


立浪選手の非凡なる守備力は、遊撃手だけではなく、二塁手へまた三塁手へとコンバートされても、守備範囲の広さ、グラブさばき、スローイングと素晴らしいプレーを変わらぬ安定感で披露!!
その3ポジションを高いレベルで維持しゴールデングラブ賞を獲得(史上初)するのですから、今後も文句なしに球史に残る”内野の名手”として語り継がれて行くのでしょうね。

1993~94年にかけては”守備機会連続無失策”(712回)という燦然と輝く記録も・・・。
(’93シーズンは主にセカンド起用で”シーズン守備率.997”と言うのは”尋常”ではない!!数字。)


1999年はチーム選手会長、2001年には”プロ野球選手会理事長にも就任(”労働組合日本プロ野球選手会副会長”も兼任。)し、野球界の発展事業にも貢献されてました。

2003年には名球会入りとなる”2000本安打”を遂に達成し、まさしく”記録にも記憶にも残る選手”となるわけです・・。

現役晩年となるここ数年は、”代打の切り札”役としてもその存在感をチーム内外で発揮。
1打席、1球に懸け研ぎ澄まされた眼光、集中力、判断力、経験、実績から試合の流れを持ち込む!あるいは試合を決める!!貴重な一打を何度となく生み劇的なチームの勝利に貢献されました。
それはまさに平成の”ミスター・ドラゴンズ”として相応しいものでもありました。

ルーキー・イヤーから現役引退までに在籍20年以上もし、生え抜きでしかも常に1軍の第一線で活躍(しかも残してきた記録も素晴らしい)!されてきた選手も珍しいかと思いますよね。



立浪和義(たつなみかずよし)
1969年8月19日 右投左打
大阪府出身 PL学園高ー中日ドラゴンズ(1987年ドラフト1位入団)
通算成績
2585試合、8715打数、2480安打、487二塁打、38三塁打、171本塁打、1037打点、135盗塁、1152四死球、1007三振、打率.285
主なタイトル
最優秀新人(1988年/試合110 打率.223 本塁打4 盗塁22)、ベストナイン2回(1996年~セカンド、2004年~サード)、 ゴールデングラブ賞5回(1988年ショート、1995年~1997年セカンド、2003年~サード) 、オールスターゲーム出場11回、連盟/セ・リーグ特別賞(2009年~現役引退に伴い通算安打数などの功績を称え)
セ・リーグ月間MVP3回(2002年6月、2004年5月・6月) 、サイクル安打(1997年8月22日、対阪神タイガース21回戦~ナゴヤドームにて)、
ナゴヤドーム初の公式戦で同球場第1号本塁打を記録(1997年)、
通算1万打席以上を記録(プロ野球史上7人目/2009年)、
通算二塁打数(487本)は日本球界最多記録(2009年秋現在)※ちなみにイチロー選手の日米通算二塁打数は439本(2009年まで)

○ハマで躍動!ホームランで応える”スーパー・ポンセ”
IMG_0030ポンセ(横浜大洋)

ご存知!”スーパー・マリオ”ならぬ・・・横浜大洋の主砲!!ポンセ選手です。
口元の”チョビ”ひげの風貌がまさにマリオに似ていて、そしてその勝負強さ光る活躍が優良助っ人として人気・注目を集めていましたね。

今では”伝説化(?!)”してる当時の球団スカウトの牛込惟浩氏が連れてきた選手としても有名。
知名度や年俸の高さでは決め付けない、如何に日本の野球スタイルに合うかの外国人選手を獲って来るか!!で定評の高かった牛込氏発掘の選手の一人でした。

来日入団当初はサードがレギュラー・ポジション。当時のホエールズは、和製大砲のサード田代の衰え、故障がちもあってサードあるいはファースト(あとは”センター屋鋪”以外の外野)に助っ人ポジションを置くことが主でした。

ポンセ選手もサードを任せられますが・・・守備は粗いものでキャッチング、スローイングで目を覆いたくなるもの(リーグ最多の”27失策”を記録)でした・・・。
が、しかし打棒は素晴らしく勝負強さと威力を持ち合わせ、1年目からいきなり日本野球にも順応し”打率.322、27本塁打、105打点”を記録!
このシーズン、あの”三冠王バース”(阪神)がいたことで”無冠”になりますが、それでも早くもチームの主砲として、そして多くのファンの心をガッチリとキャッチ☆しました。

2年目の1987年シーズンは守備位置こそ外野(足の速さと肩の強さを買われライトに・・)へ変更されました。
外野へ移り、守備の負担も軽減されたせいか打撃の方も”2年目のジンクス”は何のその!で、シーズン終われば”打率.323、35本塁打、98打点”と”100”を越えなかったものの見事に”打点王”のタイトルを奪取。他にも”シーズン最多安打”(159本)、”ベストナイン”にも選ばれ、”スーパー・マリオ”ことポンセの名は全国区に。

人気、知名度のより上がった1988年シーズンにはオールスターにも選出。
この年も本塁打を33本と量産、打点も102と稼ぎ、2年連続で”打点王”と”ベストナイン”のタイトルを―。
33本塁打は自身初の本塁打王に輝くとともに球団(大洋)でも、1959年の桑田武以来となる29年ぶりという偉業・快挙を記録しました!

1989年シーズンでは、それまでの長打力は控え目(打率と本塁打が急減少)になってしまったものの、持ち前の”脚力”(大砲のイメージがありつつの積極的な走塁術で盗塁も出来た!)活かし”二塁打”(33本)、”三塁打”(7本)を量産し、ともにリーグ最多数を記録です。

しかしながらこの頃から視力低下(遠視?)の影響なのか、”確実性”、”安定性”は影を潜め、1990年シーズンでは”2軍調整”も余儀なくされ、マリオがスター(星)を取って超変身した様な入団からの思うような打棒を発揮出来ず仕舞で、その年を最後に退団をします。

この頃の横浜大洋は長打の打てる”大砲”こそが”優良なる助っ人”との指標(?)で、”ホームランの打てない”選手は評価される事も少なかった印象でした。
当時は不調ながらも調整次第で、まだまだやれる選手と思っていたので・・・退団にはかなりのショックでした。。

勝負強さはパチョレック(’88年入団~途中阪神へ移籍)に、長打力はマイヤー(’90年入団~その年で退団)へとそれぞれ期待はされましたが、このポンセ選手以上の活躍や人気を挙げることは出来ませんでした。





ポンセ(カルロス・ポンセ)
1959年2月7日生 右投右打
プエルトリコ出身 南ジョージア大ー1Aベッテー他ーブルワーズー横浜大洋ホエールズ(1986入団~90年まで)

通算成績:533試合、2027打数、601安打、121二塁打、23三塁打、119本塁打、389打点、44盗塁、0犠打、26犠飛、202四死球、309三振、打率.296
主なタイトル:本塁打王1回(1988年/33本)、打点王2回(1987年/98打点、88年/102打点)、シーズン最多安打数159本(1987年)、シーズン最多二塁打33本(1989年)、シーズン最多三塁打7本(1989年)
オールスター出場(1988年)、ベストナイン(1987年、88年)





試合後半にライトスタンドへ本塁打を打つポンセ!


2分37秒あたりからポンセ登場!かっとばした後のはしゃぐパフォーマンスが面白い&懐かしい・・・。
※リンク切れの場合はあしからず

○生え抜き”戦士”はチームを愛しファンからも愛されるこれぞ”誠愛”!

この2009年4月に”連続7試合連続二塁打出塁”記録の日本新記録を打ち立てた事で話題にもなった北海道日本ハムファイターズ所属のベテラン内野手、金子誠選手です。
プロ新7試合連続二塁打 かねこまこと

なんと言っても!その堅実で安定したしかも献身的な守備力が魅力的で、それと同時にチーム牽引する”チーム生え抜きベテラン”としての姿勢に個人的にも好感を持っていますね。
下のなまえの漢字が同じ!という・・・ただそれだけでどこか(勝手な)親近感もあったりなんですよ(苦笑)。



’80、’90年代以降からの日本ハム内野陣では、545回の守備機会連続無失策記録(二塁手として)を立てた白井一幸氏、2009WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)日本代表内野守備走塁コーチを務めた他、そのコーチング定評さから各球団のコーチを務めその度に若手内野選手を一人前へと育ててもいる高代延博(日ハム時代は”慎也”で登録も)氏、史上35人目の2000本安打をも達成し守備力にも打撃力にも定評の高かった田中幸雄氏、チーム主将となり堅実な守備力、また引退後のタレント性でもその個性を発揮されていた広瀬哲朗氏、西武ライオンズから移籍し、当時の”ビックバン打線”でも名脇役として活躍、もちろんその守備力は当時でも屈指の巧さを誇った奈良原浩氏・・・・と今振り返れば、日本ハムの内野(主に二遊間タイプ)選手は球界をも代表する名選手の存在が多かった!ですね。

そんな偉大なる”先輩”選手たちの血や肉をそのまま継承し、現在のチーム・選手に伝えているのがこの金子誠選手でょうかね。


常総学院高の3年生時に甲子園大会でベスト4進出を。全日本メンバーに選ばれオランダ遠征参加も経験する。1993年のドラフト3位指名を受け日本ハムファイターズに入団。現在の背番号は8ですが、当初は”30”番でした。
その入団時の評価ですが、”遠投110mの強肩と100mを11秒で駆け抜ける俊足”が、高校生卒選手の中でもナンバー1の評価だったそうです!
また当時の選手名鑑本では、”偏差値70以上の頭脳明せきでレベルの高いプレーをみせてくれるはず!”なんても明記もされていました。

入団1年目から春(名護)キャンプへも抜擢参加するという首脳陣からの期待も高くされていたわけです。(1年目の1軍出場はなし。)
プロ入り3年目となる1996年に二塁手としてレギュラーを確保!する。
打撃ではその年のリーグ最多となる”38犠打”を記録し、”新人王”のタイトルも獲得。
それ以降、ファイターズ不動の”内野守備の要”役として、1998年、翌’99年には2年連続での”ゴールデングラブ賞”を受賞します。
※1997年~2001年までの5年間連続で”守備率のリーグ1位”のパ・リーグのタイ記録を。

2002年、チーム事情からそれまでのセカンドから遊撃(ショート)へコンバート。さらにFAを行使(阪神へ移籍)した片岡篤史選手が着けていた背番号”8”を継承。
2004年には日本代表として五輪に出場。
2005年シーズンでは、開幕を2軍スタートという屈辱と、出場79試合、230打席、50安打の打率.240と不振を極めたのですが、’06年にはチーム選手会長へ就任。チームの25年ぶりリーグ優勝と44年ぶりとなる日本一に貢献!シリーズ5戦目で同点スクイズを決めるなど、その存在感を改めて認識させました。

昨季の’08年シーズンは故障と不調も相まって、不本意な数字(成績)だったのでしょうが、本2009年に見事に復活の手応えもありなのでしょうか!?2009年4月15日(札幌ドーム、対オリックス・バファローズ戦)で、日本プロ野球新記録となる”7試合連続二塁打”を放ちさらに打撃も好調―。

「こんな記録は知らないし、王さんは7試合連続で本塁打。二塁打の新記録といっても“そりゃ、なんだ”って感じだよ」。球史に名前を刻んでこの憎まれ口。それも金子誠らしかった。(スポーツ報知より)





金子誠(かねこまこと)
1975年11月8日生 右投右打
千葉県出身 常総学院ー日本ハムファイターズ(1993年ドラ3位入団)
通算成績(2008年シーズンまで):1533試合、5022打数、1284安打、203二塁打、62本塁打、475打点、104盗塁、222犠打、404四死球、811三振、打率.256
主なタイトル(2008年シーズンまで):最優秀新人(1996年/打率.261 本塁打4)、最多犠打(1996年)、ベストナイン1回(1999年~セカンド)、ゴールデングラブ賞2回(1998年、1999年どちらもセカンド)、オールスターゲーム出場2回(2002年、2004年)、東京ドームMVP賞1回(1996年)、リーグ月間MVP(2009年4月)
○ガッツ溢れるプレーが真骨頂のマシガンン打線の赤き突貫弾道小僧!

現役時代その小柄な体格から発せられるガッツなプレーが信条でもあった波留敏夫選手です。
この波留選手、1990年後半の横浜ベイスターズの躍進には欠かせられない名バイプレーヤー(脇役的)であって、石井琢朗選手(’09年広島)とともに当時(特に1997、98年頃)の野球界では最強の1・2番コンビとして他球団から恐れ称えられてもいました。その期間は短かったのですが・・・。

1993年にドラフト2位で横浜ベイスターズへ入団。90年代初めに僅かながら期間ながら野球界で活躍をされ人気も話題もあった佐藤和弘(パンチ佐藤)氏と同じ熊谷組の出身という事もあってか、イメージ的にはどこかゴツゴツとした野生的(?)な印象をこの波留選手にも(個人的ですが)感じておりました。

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入団当初は内野(遊撃手)を任されていたのですが、その俊敏さある走力、地肩の強さを買われ、すぐに外野へとコンバート。その都市対抗でも強さを誇っていた当時の熊谷組での鍛え方もよかったのか、入団1年目(’94年)に53試合に出場。
翌’95年には”センター波留”として固定され、走攻守にその闘争心溢れるダイナミックなプレー・スタイルが1番打者としての適役にもなり、チームを1回の攻撃から先導させる様な活躍をも魅せていくようになりました。
この頃から”あ・うんの呼吸”、さらには”いやらしさとしつこさ”のある石井琢との1,2番コンビで、その後を打つクリーンナップへの見事な橋渡し役としてチーム得点力のアップへと貢献!(今でいう所の中日”アラバタ”荒木・井端のコンビと似ている状態とでも言いましょうか・・。)


横浜ベイスターズにとっては、投手陣も野手陣も整備されつつあって、いよいよ念願のリーグ優勝へと目された1997年シーズン中ではダイビング・キャッチを試みた際による顔面強打によるケガをし、また、オフ頃には(プロ野球選手数名による)”脱税事件”への関与も発覚し、翌1998年シーズンの開幕からその制裁のための”6週間の出場停止処分”を受けることとなりました。

’97年の成績で、”127試合、148安打、41打点、盗塁16、犠打23、打率が.295”という好成績で翌年の’98年にはさらなる高い成績と貢献度のアップへの期待も大きかっただけに、この事件そして制裁はファンを不安・心配へとさせました。
復帰した波留選手ですが、それまでのその不安を払拭させるかの奮起を魅せ、自己成績的には前年より下回る結果でしたが、2番打者としてまたセンターとしても存在感を発揮しチームのリーグ優勝、さらには日本一への原動力の一人として活躍しました。


その小柄の体型、背番号も”2”と小さながらも、そのド派手な印象がある活躍を魅せたのが、その1998年シーズンの7月15日の対巨人戦。場所は満員地元ハマスタ―。
3回を終わって、7対1という超劣勢の一般的なら負けムード・・・。
しかし、当時の”横浜マシンガン打線”は一旦導火線に点火されると、どこまでも撃ち続けるかの連打連打の強力打線☆
4回ウラに一挙5点を入れ、7対6と追い上げ必至ムード。
そんな中でも巨人は7回表に2点追加、ベイスターズも同じくウラに3点を加えこれで同点!!
まさかの8回表には3得点の巨人に続いてのウラのベイスターズも3得点!暑い暑い7月に球場内もお互いの打線が譲らない超絶乱打戦。(横12-12巨)
9回表を何とか0に抑え、ウラの攻撃にサヨナラという絶好のチャンスに巡って来た波留選手の打棒がセンターオーバー(サヨナラ)ヒットを呼んで、この劇的でもありこの球史に残るとも呼ばれた超乱打戦への終止符を打ったのがこの波留選手でした。
球場が歓声と悲鳴とだかのゴチャゴチャの音色の中で、赤い色手袋とサポーターの両腕でガッツポーズされていたのはとにかく印象深かったのでした―




そんな波留選手ですが、1999年シーズンは自己成績での現役最高の数字を残しました。が、2000年には不本意な形での60試合出場だけに留まり、2001年シーズン途中に中日ドラゴンズとのトレード話もまとまり、種田らとの交換トレードも成立に。
中日時代でも90年代の横浜ベイ時代のパフォーマンスを発揮できずに2003年には千葉ロッテマリーンズへ移籍。ロッテ時代も短命に終わり、2004年シーズンを最期に現役を引退―。

解説者等々の活躍から2006年には古巣ベイスターズに(守備走塁)コーチとして復帰。チーム事情もありながら打撃コーチにも就いたり、2009年からは再び(外野)守備走塁コーチとして、1塁コーチャーとしても活躍中!



波留敏夫(はるとしお)
1970年5月25日生 右投右打 外野手
京都府出身 京都大谷高ー熊谷組ー横浜ベイスターズ(1993年ドラ2位入団)ー中日ドラゴンズ(2001~’02年)ー千葉ロッテマリーンズ(2003~’04年引退)
通算成績:913試合、3138打数、872安打、150二塁打、44本塁打、266打点、76盗塁、103犠打、275四死球、476三振、打率.278
主なタイトル:月間MVP受賞1回(1998年7月) 、オールスター・ゲーム出場1回(1997年)

○頭部死球によって選手寿命をも危ぶまれた阪急の”トリプル・スリー”
阪急みのだ

トリプル・スリー”(打率3割以上、本塁打30本以上、盗塁30個以上を1シーズン同時にクリアーされた成績への称号。)というのがあります。
要は野手として打撃部門で”打って良し!走って良し!”の総合的なバランスが高くあって、その優れた能力を発揮させた者だけによって、クリアーされるだろうの数字な訳ですが・・・。

現在(2008年)までに、岩本義行(’50年、松竹ロビンス)、別当薫(’50年、毎日オリオンズ)、中西太(’53年、西鉄ライオンズ)、秋山幸二(’89年、西武ライオンズ)、野村謙二郎(’95年、広島東洋カープ)、金本知憲(’00年、広島東洋カープ)、松井稼頭央(’02年、西武ライオンズ)と、この長~い日本球界史にあっても、わずか数名だけにしか記録されていない!!言わば貴重で価値感も高い珍しい記録とでも呼べましょうか?!

今回の簑田浩二選手ですが、1983年(阪急ブレーブス在籍時)に、”打率.312、本塁打32、盗塁35” という文句なしの成績で、見事!’53年の中西太選手(当時)以来の実に30年ぶりとなる”トリプル・スリー”を達成させた選手であって、70年代後半~80年代中頃までのパ・リーグを代表する名外野手でありました。

社会人野球の”三菱重工三原”在籍の1972年に一度、南海ホークスからドラフト4位での指名を受けますが、これを拒否。1975年のドラフト2位指名により晴れて阪急ブレーブスに入団。
この頃の阪急はリーグを代表するまさに”勇者”のような強者チームでした。
各ポジションではレギュラーはほぼ固定されている状態!ながらも、入団2年目となる1977年に86試合に出場(130試合制)し打率2割7分を記録。

翌’78年には、それまでの1番福本豊とコンビを組んでいた大熊忠義に代わり、2番レフトのポジションを獲得。その期待にも応え、125試合出場し打率も3割を越え(3割7厘)、しかもその俊足を活かした結果、盗塁は61個と名実ともにまさに大飛躍の年になりました。この年にゴールデングラブ賞(この年から8年連続へ)も獲得しています。
当時、黄金時代でもあった阪急はリーグを代表する鉄壁の外野陣も擁していましたが、その一角に簑田選手は充分な存在感をも顕すようになっていました。


1980年から背番号も”1”となりチームの中心選手へとなり、またそれまでのレフトからポジションをライトへと固定され、その俊足を活かした広い守備範囲に強肩は相手チームへの脅威になっていました。
そして、1983年に当時3人目となる”トリプル・スリー”の偉業を達成させ、知名度も全国区へさらにアピール!この頃は長打力も安定し、リーグを代表するクリーンナップ打者となって、これからの成績や人気をも不動にとしようか?といった期待された中での1986年シーズン中に”頭部へのデッドボール”を受け、その後遺症もあってか、あの鋭く攻撃的かつ巧みなスイングや打球は影を潜めるようになってしまい、当時の阪急のチーム事情(若手選手起用への転換期)もあってか、1988年には巨人へ移籍(金銭トレード)になります。

移籍してからは主に右の代打、あるいは繋ぎ役に徹したバッティングで、その当時のジャイアンツ若手選手へのよいお手本選手となりながらも、1990年に現役を引退―。

これまでの野球界、期待されながらもあの死球が無かったら・・・・の選手は沢山いますが、この簑田選手も必ずその”あの死球が~”に名前が挙がってくる名選手であったことは間違いありませんでしょう!!

引退後は、現役時代からその洋風俳優的な顔立ちの人気もあってか、テレビ野球解説者としてもまた打撃コーチ(補佐)や守備・走塁コーチにも就き、やはり若い選手への生きた素晴らしい教科書として選手育成に活躍。
マスター・リーグへの参加等でも活躍されているそうですね。



簑田浩二(みのだこうじ)
1952年3月11日生 右投右打 外野手
広島県出身 大竹高ー三菱重工三原ー阪急ブレーブス(1975年ドラ2位入団)ー読売ジャイアンツ(1988~90年引退)
通算成績:1420試合、4604打数、1286安打、212二塁打、204本塁打、678打点、250盗塁、139犠打、621四死球、588三振、打率.279
主なタイトル:ベストナイン(1978年、1983年、1984年~外野手で)、ゴールデングラブ賞(1978~85年=8シーズン連続)、オールスター・ゲーム出場(1978年、1983~85年)、オールスター最優秀選手賞(1978年第2戦、1984年第1戦)、トリプル・スリー(1983年)達成

○シーズン最低打率にして”本塁打王を”獲得した唯一の男
広島らんす
外国人(野手)”助っ人”の魅力と言えば、やはり日本人選手には及ばないその飛距離あるパワー感を見せ付けるかの豪打っぷり!があるかと思います。
このランスは、見事にそのホームランによる破壊力と、もう一つ!ホームラン打者には絶対的に欠かせられない”三振”という応援するファンの期待を裏切る”魅力”(?)で、ものの見事に多くのファンの記憶にも、野球界の記録にも残る選手でしたね。
まさに文字通りの”一発!ホームランか、三振か!?”を地で行く”豪快”な選手でした。

それまでのチーム黄金時代を築いてきた”ミスター・赤ヘル”こと山本浩二が引退し、さらに”鉄人”と呼ばれるほどの鋼の肉体を誇示してきた衣笠祥雄選手の”鉄”にもいよいよその輝きが消えかけて来た頃の1987年シーズンに登場したのがこのランス外野手です。

主砲として期待され、4月に来日初本塁打から4試合連続本塁打を記録するなど、いきなりの打線の中核を担う存在となるのですが、すぐに相手バッテリーの研究・攻略に対応も出来ず、また本塁打狙いの大振りによる粗い(とにかく!!粗い)打撃スタイルで、三振の山を築くほどのスランプへと陥ってしまいます。

今日もブン、ブ~ンと三振の山を築くのか!と思いきやの6月頃には、突然変異的に6試合連続本塁打(当時、7試合連続がタイ記録だったはず。)をかっ飛ばすなど、まさに”超気まぐれ的”な打棒ぶりを発揮。
結局この’87年は規定打席に届いた選手の中で、最低打率(.218)ながらも本塁打王(39本)のタイトルを獲得するというある意味”偉業”を達成!※シーズン最低打率の記録で本塁打王獲得は今もってこのランス選手だけ!!

打率を下げた一番の原因は当然ながらその三振の数(114個)でした。またこのシーズンの”勝利打点”は僅かに5回(打点は83)と明らかな少なさ―。(同じ広島の小早川選手は、打点が93で勝利打点は16回です。)
チームに貢献したのか?してないのか?よく分からない”活躍”でした。

当時のセ・リーグには、バース(阪神)、クロマティ(巨人)、落合(中日)、宇野(中日)、ポンセ(大洋)と言った本塁打王争いのツワモノたちがいながらのタイトル奪取ですから、いかに凄い?!のか・・・。(本塁打の数はともかくタイトルは偶然的なのか?)


前年同様に本塁打量産を期待された翌’88年でしたが、昨季以上に不振を極め・・・
ある意味同様に(?)かもですが、その安定性の無い打撃スタイルがたたり79試合の出場だけでシーズンを途中にして退団します。(打率.189 本塁打19 打点50 三振58)

髭の風貌、手・足も長くスリム的な体型、狭い広島市民球場と言えども豪快なアーチ(と同じくらい豪快な三振!)量産は忘れられないほど、記憶に残る選手でありました―。



リチャード・ランス(リチャード・ランセロッティ)
1956年7月5日生 左投左打
アメリカ出身 グラスボロ短大ーパドレスーサンフランシスコ・ジャイアンツー広島(1987年入団~’88年途中退団)ーレッドソックス
通算成績:200試合、667打数、138安打、58本塁打、133打点、1盗塁、98四死球、172三振、打率.207
主なタイトル:本塁打王(1987年)
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