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sihuku37

Author:sihuku37
横浜市生まれ&在住になるプロ野球ほかスポーツのファン。
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○頭部死球によって選手寿命をも危ぶまれた阪急の”トリプル・スリー”
阪急みのだ

トリプル・スリー”(打率3割以上、本塁打30本以上、盗塁30個以上を1シーズン同時にクリアーされた成績への称号。)というのがあります。
要は野手として打撃部門で”打って良し!走って良し!”の総合的なバランスが高くあって、その優れた能力を発揮させた者だけによって、クリアーされるだろうの数字な訳ですが・・・。

現在(2008年)までに、岩本義行(’50年、松竹ロビンス)、別当薫(’50年、毎日オリオンズ)、中西太(’53年、西鉄ライオンズ)、秋山幸二(’89年、西武ライオンズ)、野村謙二郎(’95年、広島東洋カープ)、金本知憲(’00年、広島東洋カープ)、松井稼頭央(’02年、西武ライオンズ)と、この長~い日本球界史にあっても、わずか数名だけにしか記録されていない!!言わば貴重で価値感も高い珍しい記録とでも呼べましょうか?!

今回の簑田浩二選手ですが、1983年(阪急ブレーブス在籍時)に、”打率.312、本塁打32、盗塁35” という文句なしの成績で、見事!’53年の中西太選手(当時)以来の実に30年ぶりとなる”トリプル・スリー”を達成させた選手であって、70年代後半~80年代中頃までのパ・リーグを代表する名外野手でありました。

社会人野球の”三菱重工三原”在籍の1972年に一度、南海ホークスからドラフト4位での指名を受けますが、これを拒否。1975年のドラフト2位指名により晴れて阪急ブレーブスに入団。
この頃の阪急はリーグを代表するまさに”勇者”のような強者チームでした。
各ポジションではレギュラーはほぼ固定されている状態!ながらも、入団2年目となる1977年に86試合に出場(130試合制)し打率2割7分を記録。

翌’78年には、それまでの1番福本豊とコンビを組んでいた大熊忠義に代わり、2番レフトのポジションを獲得。その期待にも応え、125試合出場し打率も3割を越え(3割7厘)、しかもその俊足を活かした結果、盗塁は61個と名実ともにまさに大飛躍の年になりました。この年にゴールデングラブ賞(この年から8年連続へ)も獲得しています。
当時、黄金時代でもあった阪急はリーグを代表する鉄壁の外野陣も擁していましたが、その一角に簑田選手は充分な存在感をも顕すようになっていました。


1980年から背番号も”1”となりチームの中心選手へとなり、またそれまでのレフトからポジションをライトへと固定され、その俊足を活かした広い守備範囲に強肩は相手チームへの脅威になっていました。
そして、1983年に当時3人目となる”トリプル・スリー”の偉業を達成させ、知名度も全国区へさらにアピール!この頃は長打力も安定し、リーグを代表するクリーンナップ打者となって、これからの成績や人気をも不動にとしようか?といった期待された中での1986年シーズン中に”頭部へのデッドボール”を受け、その後遺症もあってか、あの鋭く攻撃的かつ巧みなスイングや打球は影を潜めるようになってしまい、当時の阪急のチーム事情(若手選手起用への転換期)もあってか、1988年には巨人へ移籍(金銭トレード)になります。

移籍してからは主に右の代打、あるいは繋ぎ役に徹したバッティングで、その当時のジャイアンツ若手選手へのよいお手本選手となりながらも、1990年に現役を引退―。

これまでの野球界、期待されながらもあの死球が無かったら・・・・の選手は沢山いますが、この簑田選手も必ずその”あの死球が~”に名前が挙がってくる名選手であったことは間違いありませんでしょう!!

引退後は、現役時代からその洋風俳優的な顔立ちの人気もあってか、テレビ野球解説者としてもまた打撃コーチ(補佐)や守備・走塁コーチにも就き、やはり若い選手への生きた素晴らしい教科書として選手育成に活躍。
マスター・リーグへの参加等でも活躍されているそうですね。



簑田浩二(みのだこうじ)
1952年3月11日生 右投右打 外野手
広島県出身 大竹高ー三菱重工三原ー阪急ブレーブス(1975年ドラ2位入団)ー読売ジャイアンツ(1988~90年引退)
通算成績:1420試合、4604打数、1286安打、212二塁打、204本塁打、678打点、250盗塁、139犠打、621四死球、588三振、打率.279
主なタイトル:ベストナイン(1978年、1983年、1984年~外野手で)、ゴールデングラブ賞(1978~85年=8シーズン連続)、オールスター・ゲーム出場(1978年、1983~85年)、オールスター最優秀選手賞(1978年第2戦、1984年第1戦)、トリプル・スリー(1983年)達成

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コメント

通りすがりの男 : 吉田義男氏も絶賛していた簑田選手

簑田選手私も大好きでした。
走攻守三拍子揃いしかもハンサムでそのうえさりげない。
こんな選手、誰もたたえないはずがない。
金銭トレードされた時は私もガッカリでしたが、
当時の「阪急好きやねん会」という女性ファンクラブの人たちが上田監督に食ってかかったらしいです。
でもこんな選手を金銭トレードするということは、
今思うとすでに身売りに向けて動いていたかもしれませんね。
ちなみに簑田選手の死球は85年4月17日の日本ハム戦で田中富(字が違うかも)投手からで、86年は自打球を足にあて骨折しました。
この2年間は本当にもったいなかったですね。

sihuku :

通りすがりの男さま こんばんわ!
わざわざの寄り道立ち寄りのコメありがとうございます♪

蓑田選手、日本人離れ的なハンサム顔で格好良かったですよね☆
プレーも素晴らしかったですし…

>当時の「阪急好きやねん会」という女性ファンクラブの人たちが上田監督に食ってかかったらしいです。

!!!面白いエピソードですねっ!v-410ある意味”らしい”かもぉ~♪w
その”身売り”の件での事情もあるかも??しれませんよね。。

>死球は85年4月17日の日本ハム戦で田中富(字が違うかも)投手からで、86年は自打球を足にあて骨折しました。

!!!詳しい情報~・・・大変!ありがとうございます。当時の日ハムは”田中姓”が(確か…)3人いらっしゃいましたよね!
今となっては、ややこしいデス(笑)

ありがとうございましたぁ。

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